日常の末端5

「正しく話す」

という技術は勿論あった方が良いでしょう。状況を進めるにしても誤解されるより物事がはるかに捗ります。ノウハウ本はこういったテキストが多いですよね。

「正しく自分を理解してもらう」

私はこれは数値で表すなら50%理解されたなら合格点で、100%はあり得ないことと思って対応しています。他人を100%理解出来た試しが無いし、またこの現代において、そこまで他者に踏み込む時間を取れる人もいない、というのが現状なのでは

ないか、と。

「正しく話す」と強調して話す人の中に、言外で本人が100%理解してもらいたいという甘え…とでもいうのか、コミュニケーションが成立出来るという錯覚なのか、俺の言う事を聞け、というものなのかw

正しく話してもらって、額面通りに正しく理解したとして、それでその通りに納得してその相手を理解するのか?といったら、それはちょっと違う話だとも思うんですよ。

好き、嫌いの好みの問題も出て来るし、話した本人の性格とか嗜好とかへの対応もあるし、単純に損か得か…とか色々と認識する為の材料が

出て来る。まあ感受性という言い方でもいいんですけど、正しく話す必要はあるけど、それだけで正しくコミュニケーションが取れるか、というのは別問題の気もするんです。

コミュニケーションというのは、それだけハードルが高い代物でもあるのかな。

そもそも「正しく話せ」って言われているのが、初めから否定された気分になるのは私だけなのか。

それとも、理解する、される事と、共感する、されるという事は全く別の話にして対応した方がスンナリ事が運ぶのか…日常生活で迷う部分でもあります。